経済的支配からの解放を求め、気づいたら情報発信をやっていた
なぜ、ぼたんが情報発信をするのか。
なぜ、ぼたんが二度の発信休止を経ても、この場に帰ってくるのか。
なぜ、ぼたんが異常なまでに独立にこだわるのか。
そのすべての背景を、この場で余すことなく書き尽くしました。
ぼたんという人物が、この場ですべて分かるように仕上げたつもりです。
@なんか入れる
人生は夢だらけ
ブログのタイトルフレーズですが、ポジティブな意味を込めていると思われるかもしれません。
人生は夢に満ち溢れている
もちろん、その意味もあります。ですが、実はまったく別の意味も込めて、このフレーズを掲げています。
その意味は、私がなぜか子どもの頃から考えていたことであり、大人になった今でも変わることのない、とある考え方です。
答えは今ここでは書きません。
私の生い立ちを知ると、説明せずとも直感的に分かり、すぐ腑に落ちると思います。
私が挑戦を恐れず、歩みを止めない理由も、この考え方が根底にあるからです。
それでは、書いていきます。
「おじいちゃんとパパがいなかったら暮らしていけないんだよ」
物心つく頃から、私は母にそう言われて育った。
「だから、絶対に怒らせたらダメだよ」
「歯向かったらダメだよ」
「稼いでもらってるんだから、我慢しないといけないんだよ」
この母の教えは、子どもだった私の価値観に強く影響した。
そして、このあとに続く結婚観にまで反映された。養われて、支配される暮らしはもう嫌だった。
私は1996年、新潟県で自営業の父、普通の母との間に生まれ、経営者の祖父の建てた家屋で育った。
肩書きを書くことでこの後の話に繋がるため、伏線としてあえて書く。
経営者と聞いて少しは想像されたかもしれないが、私は子どもの頃からお金に困る瞬間が正直いってなかった。
米や魚の産地でもあり、それなりに旬で新鮮で美味しいものを食べて育った。
まぁだからといって大富豪だとかお嬢様だとか、そんな一線を画したような一族とはまったく違う。
新潟県の経営者など、都内の一等地で暮らしているような富豪とはあきらかにレベルが違う。そもそも土俵が別次元である。
祖父や父が背広を着ている姿など一度も見たことがない。たいてい、Tシャツにジーンズか、作業着か。誰が見ても、経営者の風貌ではなかった。
新潟県で自営業をしている父親など、見渡せばいくらでもいる。
幼馴染のYちゃん家は地主、また別のMちゃん家も家族経営。近所のIちゃん家も父親が社長。
よってうちだけが特別ではなく、周りを見渡せば経営者、自営業や社長など「人の上に立つ」ような人がありふれた環境だった。
隣の家よりも車が2台多かったり、向かいの家よりもテレビが1.5倍大きかったり、その程度の小金持ちレベルだった。
じゃあなぜわざわざ経営だの自営だの書いたのかというと、根源はここにある。
「自分の力でお金を稼げる男は偉い」
「女は自分で稼げないから俺に刃向かうな」
「女は家と子どものことだけやればいい」
「誰が食わせてやってると思ってるんだ」
「稼ぐことのできない女は黙って俺のいうことを聞け」
これは祖母や母、そして私にへと祖父が実際に口にした言葉の数々だ。
祖父は家族を経済的な理由で支配してきた。
父も祖父と同じ血を引いているので似たところはあったが、祖父ほどひどくはなかった。
ただただ、祖父は本当にひどかった。思い出すだけでも悔しくて書きながら涙が出てくる。
祖父の支配のせいで、うちの家族はめちゃくちゃだった。
私は、祖父が大嫌いだ。
実際にはおじいちゃんと呼んでいるから、今からおじいちゃんと書く。
おじいちゃん、いや、くそじじい。あの世に行く前に一発殴らせろ。
おじいちゃんとは絶縁状態で、次に会うときとしたらおじいちゃんが棺桶に入ったときだと思っていた。
だが、やっぱり次に会うのは私が殴りに行くときに決めた。
私が独立やら経営やらお金を稼ぐことに執着するのは、このくそじじいを見返したい思いが原点にある。
お金とか正直どうでもいい。お金を稼ぐ能力に意味がある。
お金に価値は感じない。お金を稼ぐ能力だけに価値を感じる。
私は子どもの頃からおじいちゃんに散々バカにされ、否定され続けた。
母によって上げられた自己肯定感を、おじいちゃんによって下げられた。
お金を稼げないやつはみんな格下だと思っているおじいちゃんを絶対に見返したい。
見返す術が自分で稼ぐことしかなかった。
だから稼いでいる、ただそれだけ。
私を動かす原動力は、すべてこの思いに帰結する。
おじいちゃんは、とにかく意味わからんくらい無茶苦茶な人だった。
「男が格上」「女は格下」と考える差別的な人間だった。
1940年代の昭和生まれのおじいちゃんからしたら「男が外で稼ぐ、女が家を守る」この考えが常識なのかもしれない。
時代背景があるからそれはどうでもいい。それが常識だったのならとやかく言うつもりはない。
だからといって男が女に暴言を吐いていいなど、そんな時代背景はない。
おじいちゃんはおばあちゃんに対していつも威圧的だった。会話は怒り口調がデフォルトだった。
「なんで俺の飯がないんだっ!!」
朝帰りのおじいちゃんが今日もリビングでおばあちゃんに怒鳴っている。
「また始まった…」
2階で寝ている私は、その怒鳴り声で起きるのがデフォルトだった。
朝帰りすることにおばあちゃんも思うことがあるのだろう。おばあちゃんも少し言い返す。
すると会話はヒートアップする。どんどん声量が大きくなる。
「誰のおかげで飯が食えると思ってんだっ!!」
おじいちゃんは近所にも丸聞こえなくらいの声でそう吐き捨てて、オープンカーに乗ってどこかへ出かけてしまった。
そして今日もおばあちゃんが静かに泣いている。
子どもだった私は、おばあちゃんになんて声をかけたらいいのか分からなかった。
「おじいちゃんの声、ほんとうるさいよね」
こんなことしか言えなかったと思う。私なりの、精一杯の味方だよアピールだった。
おばあちゃんも妻としてプライドがあるのか、子どもの私がそばにいたところでなんの頼りにもならないのか、私の前では強がっていたように見えた。
おじいちゃんはほとんど家にいなかった。
おじいちゃんは仕事一筋で、「死ぬ日まで働いていたい」と言っていたのが印象的だった。
昼は小売業の経営、夜は自分の居酒屋(時代的にパブと呼ぶらしい)でマスターとして働く。
おじいちゃんからしたら、夜遅くまで働いてるんだから朝食くらい用意しておいて欲しい。
でもおばあちゃんからしたら、仕事終わりは飲まずに家に帰ってきたらいいのに、と思っている。
おじいちゃんはパブの閉店後、お酒を飲んでそのままお店に寝泊まりしている。で、朝になったら家に帰る。
パブで働いているのはマスターのおじいちゃんを除けば女性しかいない。おばあちゃんからしたら面白くないはずだ。
そして、いつも言い合いになる。
そんなおじいちゃんだから、嫁の立場である母もかなり苦労していた。
おばあちゃんと同じように、しょっちゅう理不尽なことで怒鳴り散らかされていた。
「お前は子どもに甘すぎる!!」
子どもというのは私や私の1つ上の兄のことだが、子育てをしたこともないのに謎の価値観を押し付けられている姿もよく見た。
おじいちゃんは、自分の子どもを抱っこしてあやすことなんて忙しくてしたことがないと自慢していた。
そんなの自慢ではない。愚かだと思う。
「学校へ行くのに送り迎えなんてするなっ!」
「そうやって甘やかすから自分で何もできなくなるんだっ!」
「俺が子どもの頃なんて!」
おじいちゃんはいつも、自分が子どもだった時代と比較して文句を言ってくる。
「お前たちの時代はいいなぁ!」
「子どもだからって働かなくていいんだもんなぁ!」
中卒で働き始めたおじいちゃんがいつもそう言っていた。
「当たり前に勉強ができてありがたいと思えよ」
そんなことは言われなくても分かっている。
時代が大きく変わろうと、おじいちゃんの凝り固まった昭和の脳みそは変わることがなかった。
いや、変えようとした。
何度も変えようと努力したが、それはなんの意味もないことに気づいた。おじいちゃんの考え方を変えるのは並大抵の努力が必要だった。
おじいちゃんは死ぬまで怒鳴り散らかす存在なんだと、家族みんな悟った。もう、あきらめた。
それでも、母はいつも私にこう言った。
「おじいちゃんのおかげで生活できるんだからね」
「おじいちゃんのおかげで美味しいお肉が食べられるんだからね」
「おじいちゃんのおかげで・・・」
これが、母からの私に対する教育だった。
母は理不尽に怒鳴られようが、家事育児に文句を言われようが、この教育を徹底してきた。
訳がわからなかった。
なぜ母はおじいちゃんより頭がいいのに、なぜいいなりになっている?
なぜ?なぜおじいちゃんに服従する?
「こんなに広いお家を建てたり、かっこいい車に乗ったり、美味しいものを食べられるくらいお金を稼ぐなんて、普通じゃできないんだよ」
「辛いけど、ママがこの生活から逃げたらあなたたちを守れないから」
意味がわからなかった。
母も母で、女である自分は自分で稼げない人間だと思い込んでいた。
母はお金のある暮らしが目的でこの家に依存しているわけではない。子どもの私たちにいい暮らしをさせたい一心で、この支配から逃げることを選ばなかった。
「帰ってくる家があること」
これは、私や私の兄が将来巣立ったときに、ちゃんと帰ってこれる家があること。誰からも奪われることのない、安心できる実家があること。
それを守りたいと、母はいつも言っていた。守るべきだ、とも言っていた。
「ママが逃げたら、あなたたちが帰ってくる場所がない」
母はそう言っていた。
私からしたら、帰る家が別に賃貸アパートだってよかったのに。
母や父がいれば、そこが帰る場所だと思っていたのに。
母からすれば、「生まれ育った場所」が「帰れる家」の定義らしい。
よくわからなかった。
ただ、私から見れば結局「経済的な依存」だった。おじいちゃんに「経済的に支配」されているだけだった。
悔しかった。
このまま支配され続けるなんておかしいと思った。
自分は母やおばあちゃんのように、おじいちゃんに支配されたくないと思った。
母が苦しむ姿を見たくなかった。
おばあちゃんが泣いている姿を見たくなかった。
「女だから」と一生格下扱いされるのは意味がわからなかった。
バカなことを言っているおじいちゃんを絶対に見返す。私が経営者になって、女だってお金を稼げるんだって証明してみせる。
私は子どもの頃から家族に宣言していた。社長になる!と。(子どもだから社長という言葉しか知らなかった)
「おめえが社長なんて無理無理」
おじいちゃんからはいつも否定された。
「自分で経営するってのがどれだけ大変か…」
「家族を養うってのはな、おめぇが思っている以上に大変なんだぞ」
いつもそう言われた。
おじいちゃんはいつもその話題になると、自分の苦労話で子どもの私を洗脳しようとしてきた。
「俺が子どもの頃なんて貧乏で貧乏で…」
「教科書も持ってなくて15で東京に出て…」
「泣きながらニワトリの首落として…」
「ウシやブタのうんこまみれの腸を素手で洗って…」
おじいちゃんは精肉関係で修行したといい、苦労した経験を耳が腐るほど聞いた。
お金を稼ぐことの大変さ、そして苦労した自分に従えという洗脳だと思った。子どもながらに、洗脳されそうになる感覚があった。
だが私は違和感しかなかった。おじいちゃんに対する反骨心がぶれることはいっさいなかった。
おじいちゃんの思い通りにはならない。その気持ちが常に私の歩む方向を決めてきた。
打ち込んだ
私は小学2年のとき、1つ上の兄の影響で少年野球を始めた。
当時、その野球チームに女子などいなかった。今となっては女子野球が盛んだが、当時は女子野球などかなりの少数派だった。
片岡安祐美さんという選手がメディアで活躍しているのを知っているくらいだった。欽ちゃん球団と呼ばれる茨城ゴールデンゴールズに所属した女性初の社会人野球選手だ。
なぜ野球を始めたのかと聞かれると、「大好きな兄がやっているから」と言っていたし、私もそうだと思い込んでいた。
だが今になって思うと、「女にはできないと思われていること」に挑戦したい一心だったのだと思う。これがおじいちゃんに対する反骨心だ。
そのチームで女子の入部は私が初めてだった。監督やコーチからとても歓迎された。
もちろん、おじいちゃんにひどく反対された。
「女が野球なんて何考えてんだ!」
「女は女らしいことしてろ!」
「そんなんで将来結婚できんだか!?」
さっきからおじいちゃんに言われたセリフをいくつも書いているが、よくここまでポンポン思い出せることに自分でも驚いている。
そのセリフを言っているときの私を見下す顔までくっきり思い出せる。それほどおじいちゃんが私の人生に影響を与えているんだと、今書いていて思う。
野球に関しては母もかなり言われたようだった。
「女に野球をやらせるなんて、おめぇは何考えてんだ!」
母は私がやりたいことに否定したことがなかった。やりたいと言えばなんでもやらせてくれた。
母はおじいちゃんを納得させるわけでもなく、ただただ、受け流していた。
「本人がやりたいと言っているんだから、やらせてあげたい」
母はそれを突き通した。
おじいちゃんは孫の私にあまり興味がないのか、入部してからは何も言わなくなった。
私は「男に負けたくない」の一点張りで野球に打ち込んだ。小学生ながらにそれを証明したかった。
小学生のうちはよかった。身長も、筋力も、足の速さも、男女で差がつくことはそうそうなかった。
私の所属した野球チームは県内でベスト4までいった強豪チームとなった。新潟県で約200チームあったなかで、4番目に強いチームだ。
練習はハードできついことの方が多かったが、不思議と続けることに苦はなかった。
練習は毎日欠かさずあった。毎週のように練習試合の予定が組まれていた。あいまいだが、練習や試合を休んだ記憶がない。
野球に打ち込む過程で、私の本気スイッチが入る瞬間があった。
私が初めて練習の成果を発揮する機会。それが小学3年のとき、初出場となった練習試合だ。
母も私の初舞台を楽しみにして応援に来てくれた。
試合も中盤に差し掛かり、代打でバッターボックスに立った。
緊張で足がガタガタ震えた。相手チームの守備勢が「ばっちこーい」とおおげさに煽ってくる。
母の声援が聞こえる。母が何かを叫んでいるが、私の耳にはまったく入って来ない。
緊張とパニックで、気づいたらキャッチャーがボールを掴んでいる状態が3回続いた。
気づいた時には三振していた。
しかも、見逃し三振だ。
一度もバットを降らずに、三振でアウトになったということだ。
最悪だ。
「バットを振れ!!!!!」
母はそう叫んでいた。
バットを振ればまぐれでも当たるかもしれないからとにかく振れ。監督からもそう言われていた。母に言われずとも自分が一番よくわかっていた。
なのに怖くて振れなかった。
バッターボックスに立つことがあんなにも怖いなんて知らなかった。練習ではコーチや先輩が投げてくれるから、知らない相手からの投球は未知だった。
後悔した。
手のひらに豆ができるまで素振りをしたのに、一度もバットを振らなかった自分がしょうもなかった。悔しかった。
この日の出来事が、私の負けず嫌いが加速するスイッチになった。この日の悔しさをバネに、練習に打ち込む日々を過ごした。
初めての練習試合は勝ったか負けたかは覚えていない。
とにかく、見逃し三振したという現実だけが私の記憶に残っている。
小学6年になると、努力が報われ背番号9番をもらえた。
一桁を目標にしていた私は嬉しかった。私が9番をもらったことで、背番号が二桁になった同級生はさぞかし悔しかったと思う。
私に負けた同級生は、悔しさをバネに大人になった今、打ち込めるものに出会っていたらいいなと思う。
背番号9番をもらってからは地区大会で優勝。市内大会でも優勝。マクドナルド杯でも優勝。そしてさっきも書いたように、県大会でベスト4入りした。
ちなみに、おじいちゃんは私の野球をしている姿をひと目すら見に来たことがない。
別に来て欲しかったわけではないが、「孫は目に入れても痛くない」ということわざがあるが、私にとっては現実味のない言葉だった。
こち亀
小学生活では野球に打ち込んでいたが、勉強の方はというとボロカスだった。
とにかく、勉強した記憶がないのだ。教科書の内容どころか、表紙すらまったく思い出せない。勉強に対する興味がゼロだった。
新学期になると各教科のノートを新調するが、最後のページまで使い切った試しがない。
勉強をしなくても経営者になれると本気で思い込んでいたし、むしろ勉強しない方がお金を稼げるのだと思い込んでいた。
中卒のおじいちゃんと、高校中退の父を見て育ったからという私の浅はかは言い訳だ。穴があったら入って立ち入り禁止にしておきたい。
そんな私は教科書を読まずにこち亀を読んでいた。
私が一番好きな漫画だ。
なぜか家にこち亀が100冊くらいあり、暇さえあればこち亀を読んでいた。両さんの考え方、生き方が大好きだ。私はこち亀で教養を学んだといっても過言ではない。
私は子どもの頃から「両さんを模倣」している。
立ち止まったとき、困ったとき、悩んだとき。「両津勘吉だったらどうするか?」と常に考えて行動している。マインドだけでなく、私の行動力は両さん所以だったりする。
そしてなによりこち亀は私からしたら百科事典みたいなものだった。
ただのギャグ漫画ではない。雑学と教養の宝庫。未来技術からギャンブルまで、どの分野もフル網羅している。
私は小学生のときこち亀で「株の仕組み」を学んでいた。教科書なんかよりこち亀の方がずっと将来に役立つと思っていた。
こち亀について書き出すと止まらないので、この場では割愛し別の記事で紹介する。
私のあこがれがすべて両さんに詰まっている。両さんになりたかった。
だが、卒業アルバムには「プロ野球選手になりたい」と書いた。さすがに両津勘吉になりたいとは書けなかった。
プロ野球選手という夢は、たった数ヶ月後には消えさった。
私は中学に上がっても野球を続けるつもりだった。
だが、私は不安でいっぱいだった。中学生になれば体つきが変わる。中学生とは言え女子は女らしくなっていくし、男子は男らしくなっていく。
女子特有の悩みが出てくれば、男子特有の悩みが出てくる時期でもある。正直、男子しかいない環境でたった一人の女子として過ごすのが不安で仕方がなかった。
小学時代は男も女もあまり関係がなかったが、中学になれば話は変わってくる。
私はやっていける自信がなく、野球部に入るのをあきらめた。
小学時代の監督やコーチ、そして母の期待を、私は簡単に裏切ってしまった。
「野球部に女子が入部するらしい」
誰もが私が野球を続けると思っていたから、そんな噂が学校中で流れたくらいだった。
中学の野球部の顧問も私のことを迎えに来てくれたくらいだった。
嬉しかったが、期待には応えられなかった。
野球を辞めてからはクラスの友達に誘われてフィールドホッケー部に入部したが、楽しい反面、正直いって本気で打ち込めるものではなかった。
人数が少なくレギュラー争いなどなかった。練習をサボっていても背番号5番がもらえた。なんだか張り合いがなかった。
「なんであのとき、勇気を出して野球部にいかなかったんだろう…」
そう思う日も少なくはなかった。だが、誰にも打ち明けず胸の奥にしまいこんでいた。
もし仮に野球部に入部してから問題が起きたとしても、問題が起きてから考えればいいじゃないか。
今となってはそう思うのだが、ランドセルを降ろしたばかりの私の視野は狭かった。
中学になっても相変わらず勉強に興味がなく、どんどん授業についていけなくなった。
新たな科目として英語が加わったが、いまだに「トューハンバーガーアンドトューコーラプリーズ」を習った記憶しかない。それしか覚えていない。
アメリカのハンバーガー屋で使う日が楽しみである。
そんな感じで、補習は当たり前だった。
高校に上がるとさらにひどかった。遊ぶのに忙しく、さらに勉強をしなくなった。
テスト順位などクラスで後ろから数えて2番目とか、1番目になることもあった。
勉強などどうでもいいからとにかくバイトがしたかった。
やっと自分で稼げる。高校入学して1ヶ月も経たないうちに中華料理店でバイトを始めた。
まだ高校生活に慣れてもいないのにさすがに早すぎると母から止められたが、もう止められなかった。勝手にバイト先に履歴書を持って行ってしまった。
母には叱られたが、バイトできることが嬉しすぎて無傷だった。
仕事内容が楽しいというより、「働いている」という実感がうれしかった。自立している感覚がたまらなかった。
家族に頼らず自分の力でお金を稼いでいる。最低賃金だったが、そんなのどうでも良かった。時給は603円だった。こんな時給で働いている女子高校生は他にいなかった。
友達に言ったら笑われるが、給料が低いことなど心底どうでもよかった。
家から歩いて行けるバイト先がこの中華料理店しかなかったのだ。すぐに辞めたらおじいちゃんにバカにされると思い、辞める理由を潰すために通いやすいことを優先して選んだ。
おかげで高校1年から高校3年の11月まで、3年近く継続することができた。
アルコールの取り扱いが多く、お酒に詳しくなれるのも嬉しかった。少し大人になれた気がした。
このバイト経験でも自信につながる出来事があった。
高校生の私がたった一人でホールを任されるようになったことだ。
その中華料理店のホールは二人〜三人体制。平日の夜、限られた曜日のみ一人体制だった。一人で任されるのは正社員で、高校生が平日の夜に一人で入ることはなかった。
だが、急に店長から言われた。
「ぼたんさんなら一人でも安心して任せられるから、平日の夜も入る?」
一人で入るということはお客様の対応はもちろん、レジの管理から売上の締め作業までを一任されるということだ。
迷わず引き受けた。
高校生が一人で任されるなんてここでは聞いたことがなかった。大人から信用されているんだと感じて嬉しかったし、自分の頑張りが報われたような気がした。
正社員じゃないと一任されないなど、私の単なる思い込みだったんだ。
また、私になら給料を多く支払っても良いということだ。嬉しくないわけがなかった。
ちなみに学校生活ではというと、テスト期間は常に留年の危機に迫られていた。留年したらしたでいいやと、勉強に対しては本当に投げやりになっていた。
学歴などどうでもよかった。
むしろ学歴が低いほうが、経営者と名乗るときにかっこいいとすら感じていた。学歴にコンプレックスを感じたことがなかった。
無論、今となっては勉強しておけばよかったと思っている。勉強もそうだが、本をたくさん読んでおくべきだった。
大人になって、その遅れを取り返すように本を読み漁っている。
あっという間に進路を決める時期になった。
早く社会に出たい一心で、進学は考えていなかった。
だが、就職先も考えていなかった。
経営者になりたいと言いながら、経営者になるための勉強も行動も何も始められていなかった。知識もないので何をどうしたらいいのかわからなかった。
だが、謎の自信しかなかった。なんの根拠もないのに、経営者になれるという自信だけはあった。本当に恥ずかしいやつだ。
進路面談のときは本当に何も考えなすぎて「えーアパレル店員やろっかな」とか言っていた。「お前、それはやめとけ」という担任のひと言でアパレルへの道は一瞬で散った。
最終的に求人から選んだ就職先は「なんか面白そうだから」「若いうちしかできない仕事だから」というなんとも軽い理由で決めた。
この就職先選びから、私の人生が静かに狂い始めていった。
「上の人を遠くまで歩かせないで」「上の人に仕事をさせたらダメ」
わけがわからない。
そこはわけがわからない職場だった。
使い古された言葉で恐縮だが、いわゆるブラックだった。残業代が出ないとか有給が取れないとか、そんなレベルのブラックさではなかった。
罵倒三昧、人格否定、男尊女卑、責任転嫁。
パワハラ、モラハラ、セクハラ、アルハラ。
なんでもありだった。毎日、地雷原を歩かされているようなヒリついた空気のなかで業務をこなした。
かなり特殊な業種のためあいまいな表現で恐縮だが、表向きはサービス業であり、お客様と接することもある。だが、ほとんどは事務業という名の雑務だった。
私のキャリアスタートは「湯呑み覚え」だった。上司にお茶出しをするために30名ほどの湯呑みを覚えるのだ。今どき急須でお茶だしなどバカらしくて絶望したのを覚えている。
メモ帳に上司の名前と湯呑みの特徴をびっしり書いて、初日はメモを見ながらあたふたお茶を準備した。
「モタモタしてると休憩終わっちゃうよー」
入社初日から嫌味が飛んでくる職場だった。
「一度教わっただけで覚えられるわけがないだろ…」
周りの誰もがそう思っていたはずだ。
だが、全員この空気感に耐えて頑張ってきた。嫌味を言われながら業務を覚えるのが、新入社員に対する通過儀礼のようなものだった。
これが風習だった。古くからの慣わしだった。一度教わったことができなければ、人格否定レベルで詰められた。